LOGIN私の背を支えていた燎の手が止まった。 「柊吾」 さっきまでとは違う声だった。まるで、傷ついた獣が唸るみたい。 柊吾は燎を見て、笑みを深めた。 「美月が治療を受けられるようにすると約束したな。必ず間に合わせると」 美月。 九年前に燎が失ったというのは、この人のことなの? 柊吾に過去を突きつけられ、目を伏せた燎を思い出した。きっと、好きだった女性なのだ。今も忘れられないほど、大切だった人。 その女性にも、私に向けるような優しい顔をしていたのだろうか。今そんなことを考える自分が嫌だった。 燎は、私の背に手を添えたまま柊吾を見た。 「美月の話をするなら、おまえがしたことも話せ」 柊吾の笑みが消えた。 「何の話だ」 「美月の治療の記録を、製薬会社へ売ったことだ。検査の結果も、受けた治療も。本人が許可していないと知っていて、売った」 私は柊吾を見た。 今、燎は何と言ったの。美月という人の治療の記録を、この男が勝手に売った? 柊吾は、燎から目をそらさなかった。 「渡したのは、美月が死んだあとだ。治療法の研究に役立つ記録だった」 燎が柊吾を問い詰めた。 「その金を、会社に入れたんだろう」 柊吾は悪びれずに答えた。 「会社を潰すわけにはいかなかった。研究を続けるには金が要る」 志津子が柊吾へ顔を向けた。 正臣は莉乃の肩から手を下ろした。莉乃も、柊吾を見ている。 燎は低い声で問い返した。 「会社に金が要れば、本人の許可もなく売っていいのか」 「死んだ人間に、どうやって許可を取るんだ」 柊吾の返事に、私は思わず燎を見た。 燎は笑わなかった。 「取れないなら、売らない。それができないから、おまえをSENOVAから追い出した」 柊吾が燎へ一歩、近づいた。 「俺が金を集めなければ、あの会社は潰れていた」 「美月の記録を売ったことを、会社のためで済ませるな」 志津子が、二人の間へ声を差し挟んだ。 「鷺宮さん。過去のお話は、別の場所でお願いします」 燎は志津子を見た。 「あなたが灯里の父親の会社を任せた男の話だ。知らずに済ませるつもりか」 志津子の口元が動いた。けれど、返事はなかった。 燎が柊吾を追い出した理由を、この人は知っていたのだろうか。それとも、知らないまま父の会社
夜の久条屋敷のホールで、私は目の前の二組から目をそらしたくなった。 正臣は莉乃の肩を抱いている。私の名前を呼んで抱いていた女を、今も離そうとしない。 その奥では、柊吾の手が志津子の腰に添えられていた。私には妻の役目を説いていた人が、父の会社の新社長の隣に、堂々と立っている。 どちらも、見ていたくなかった。 それなのに、二組とも平然と私を見ている。まるで、気持ちが悪いと思う私の方がおかしいとでも言うような目だった。 「何か、おかしいかしら」 志津子が言った。私が腰に添えられた手を見ていても、隠そうともしない。 「お二人のことは、知りませんでした」 「見てのとおりよ」 若々しく見えても、志津子は正臣の母親だ。柊吾より、ずっと年上のはずだった。 そんな二人が、私の知らないところで、父の会社のことまで相談して決めていたのだろうか。 「柊吾さんを社長にしたのは、そういう関係だからですか?」 「それとこれは、関係ありません」 志津子は真顔で答えた。 その隣で、柊吾が面白そうに口元を緩めた。腰に添えた手を離す気もないらしい。 私がどう思うかなど、二人とも気にしていないのだ。 やはり、怖い人たちだ。 否定されても、疑いは消えなかった。 父の会社を誰に任せるかも、私が選考に出るかどうかも、この二人の間だけで決められているの? 志津子には久条家の財産と人脈があり、柊吾は豊富な経営者としての経験がある。二人には、それをするだけの力があるのだ。 黙っていたら、また私のいないところで話が進んでしまう。 私は志津子を見た。 「私は辞退していません。辞退したことにするなんて、卑怯なことはやめてください」 正臣が一歩、前へ出た。 莉乃の肩を抱いたまま、私の背に添えられた燎の手を見る。 「灯里。その男から離れなさい」 「どうして?」 「君はまだ、僕の妻だ」 莉乃は、正臣の胸元に手を置いたまま、私を見た。 私を追い出した時も、正臣はこの女を抱いていた。今は、その手を離しもせず、私に夫として命じている。 「その女を抱いたまま、よく言えるわね」 正臣の目が細くなった。 「灯里。先に戻っていなさい」 私への言葉ではなかった。 莉乃の背を撫でる手を見て、分かった。また、私の目の前で。 莉乃
「誰が、そんなことを決めたの?」 夜の本邸の廊下で、私はスマホを握り直した。 電話の向こうで、莉乃が小さく息をつく。 「柊吾さまに聞いてください。私に言われても困ります」 通話が切れた。 お礼だけを言って、こちらの返事も聞かない。私が怒っても、もう何も変わらないと思っているのだろうか。 「灯里」 廊下の先から燎が来た。 私は彼に向き直り、莉乃から聞いたことを話した。 「私がNEXUS ONEを辞退したって言うの。柊吾さんから聞いたって」 「君は、何も言っていないんだな」 「言ってないわ。本当かどうか、確かめたい」 燎は真鍋へ電話をかけた。 私は自分の部屋へ入り、ベッドの端に座った。廊下で話し続けて、奏汰を起こしたくなかった。 数分後、真鍋から折り返しの電話が来た。 隣に座った燎が、通話をスピーカーに切り替える。 「桐谷様の応募は、辞退扱いで取り消されています。柊吾様が、桐谷様の了承を得ていると伝えたそうです」 本当だった。 私が何日もかけて準備している間に、あの人たちは、私が出ないことにしてしまったのだ。 「了承なんてしていません。私は、選考に出ます」 「そのご意向は事務局へ伝えます。ただ、応募を元に戻すという回答は、まだありません」 莉乃は、あんなに嬉しそうだった。 私に勝ったからではない。私が勝負をする前に、外されてしまったからだ。 奏汰との電話に遅れた夜も、疲れて文字が頭に入らなくなった時も、少しでも早く作りたかった。今度こそ、自分の名前で届けられるものにしたかったのだ。 それを、辞めたことにされるなんて。 「真鍋。本人が辞退を否定していると伝えろ。事務局の責任者と直接話す」 「承知しました」 通話が終わると、私は燎を見た。 「燎、これから車を出して」 「どこへ」 「久条の家。私が辞退したことにされたのに、電話だけで済ませたくない」 燎はすぐには立たなかった。私の顔を見て、眉を寄せる。 「今日は倒れたばかりだ」 「分かってる。長居はしないわ。でも、明日の朝まで待ったら、私が認めたと思われる」 休まなければいけないことは、分かっていた。 それでも、莉乃の声を思い出すと、ベッドに入る気にはなれなかった。私が何も言わずにいる間、あの女は私が譲ったものとして
「だったら、誰かから聞かされる前に、あなたの口から聞きたいわ」 夜のSENOVAの休養室で、私はベッドに横になったまま、燎を見て答えた。 嫌われたくないなんて、燎にも思うことがあるのだ。あの強気な声で命じられる時より、その言葉の方が嬉しかった。 けれど、嫌いにならないと約束して安心させることはできなかった。 私はまだ、この人を全部知っているわけではない。 燎は握った手へ目を落とし、それから私を見た。 「覚えておく」 *** そのあとも一時間ほど横になり、もう一度成瀬に診てもらってから、私は燎と一緒に彼の本邸へ帰った。 家で休んでもいいと言われたが、明日の仕事は休むように念を押されている。 廊下で迎えてくれた三枝に、奏汰は眠っていると聞いた。 燎と別れて息子の部屋へ入ると、枕元の小さな灯りがついていた。ベッドの横に座り、額へかかった髪をよけると、奏汰が目を開けた。 「……ママ?」 「起こしちゃったね。ごめん」 「帰ってきたんだ」 眠そうな声で言い、私の腕へ手を伸ばした。 帰ってきたことを、喜んでくれている。それが嬉しくて、私はその手に自分の手を重ねた。 「うん。帰ってきたよ」 「明日、会社?」 「お休みする。朝ごはん、一緒に食べようね」 「朝ごはんのあとも、おうちにいる?」 「いるよ。明日は、おうちでゆっくりする」 「じゃあ、起きたら呼んでいい?」 「もちろん。ママの部屋に来てね」 朝ごはんのあとも、一緒にいたいのだ。そう思うと嬉しくて、私は息子の手を撫でた。明日は夜八時の電話まで待たせずに、この子が起きた時からそばにいられる。 奏汰は頷き、私の腕に触れたまま目を閉じた。 先生に診てもらったことは、電話で話してある。倒れた時のことまで話して、今この子を心配させたくはなかった。 朝には、ここで一緒に食事ができる。今夜はその約束をして、息子の手が離れるまでそばにいた。 廊下へ出て、奏汰の部屋の扉をそっと閉めた。 スマホが震えたのは、自分の部屋へ戻ろうとした時だった。 画面に、莉乃の名前が出ていた。 今夜は、あの女の声を聞きたくなかった。奏汰に帰ってきたと喜んでもらえたばかりなのだ。正臣の隣で私の代わりに笑う女に、その嬉しさまで邪魔されたくない。 それでも、久条家で何か
「会いたいわ。どうして来なかったのか、聞きたいもの」 夜のSENOVAの休養室で、私は燎の顔を見て答えた。 私の手を包んでいた彼の指が、少し強くなった。燎は笑わず、私から目を離さない。昔の話だと聞き流すつもりは、ないらしかった。 「戻ってきてほしいのか」 私はすぐには答えられなかった。 あの頃は、毎晩、返事を待っていた。何かあったのなら一言でも知らせてほしかったし、もう話したくないのなら、そう言ってほしかった。 九年も経ったのに、来なかった理由をまだ気にしている。待っていた私だけが、あの時間を大切に思っていたのだと決めたくなかった。 「戻ってきてほしかったのは、あの頃よ」 レイとの時間は、今も大切だった。だからといって、あの頃に戻れるわけではない。 今、そばにいてほしいのは、私の手を握っている男だ。燎が帰ってしまったら、レイの返事を待つより先に、彼の足音を気にしてしまう。 「今は、あなたと話してるでしょう」 燎が私を見つめた。ようやく口元が緩み、握った手を自分の膝へ引き寄せる。 「なら、今夜は俺のことを考えろ」 そんな言い方をされると、また顔が熱くなる。 今までだって、十分考えていた。いつから私を気にしていたのか。倒れた私を見て、なぜあんなに焦ったのか。知りたいことは増えるばかりだった。 「考えてるわ。あなたが話してくれないから、分からないことばかりだけど」 燎の笑みが消えた。何か言いかけた唇を閉じ、私の指へ目を落とす。 いつもなら、私が困るような言葉をすぐに返してくるのに。今は、その返事を待つのが怖かった。 「私のことは、昔好きだった相手まで聞くのに。あなたのことになると、答えてくれないのね」 九年前、燎が失ったのは、どんな人だったのだろう。女の人だったのだろうか。その人にも、こんなふうに手を握って、帰ってほしくないと言ったことがあるの? 聞きたい。でも、今も忘れられないのだと言われたら、どんな顔をすればいいのか分からなかった。 知りたいのは、私の知らない話だからだけではない。この人が誰を大切にしていたのかが、気になってしまう。 奏汰のことも、正臣にされたことも話した。今夜は、昔の相手をどれほど待っていたかまで知られてしまった。 恥ずかしくても話せたのは、燎に分かってほしかったからだ
「誰のことだ」 夜のSENOVAの休養室で、燎は私の手を握ったまま聞き返した。 「その言い方。昔からって……」 「何がだ?」 燎の顔は、とぼけているようには見えなかった。私が何を言い出したのか、確かめるように見ている。 「九年前、研究者向けの匿名SNS、スコープで知り合った人がいるの。レイって名前を使っていたんだけど、顔も、本当の名前も知らなくて」 あの人にも、よく「ひとつだけ、仮説を聞いて」と頼んだ。ひとつのつもりが、話し始めると終わらなくなった。 「あなた、今、『昔から』って言ったでしょう。私たち、知り合ったばかりなのに。もしかして、レイなのかと思って」 説明すると、恥ずかしくなった。燎には思い当たる様子もない。私があの人を思い出していたから、期待しすぎたのかもしれない。 「……ごめんなさい。変なことを聞いたわ」 「その男が好きだったのか」 私は握られた手へ目を落とした。 今は燎に手を握っていてほしいのに、ほかの男の話をしてもいいのだろうか。でも、レイとの時間を何でもなかったことにはしたくなかった。 「会いたかったわ。顔も、本当の名前も知らなかったけど」 燎が私の手を少し引き寄せた。 「妬けるな」 顔を上げると、燎は笑っていなかった。 昔の相手まで気になるのだと思うと、少し嬉しかった。自分から聞いたくせに。 「どんな男だった。君が、会いたくなるほど」 「頭がよくて、自信家で。言い方に腹が立つことも多かったわ。……あなたに似てた」 燎の口元が緩んだ。 「褒めているのか」 「これから褒めるの」 何を話そう。最初に浮かんだのは、もう研究をやめようかと思っていた頃のことだった。 「学生の頃、やりたい研究があったの。でも、誰に話しても無理だって言われて。何度も言われるうちに、私にもできない気がしてきた」 どうしても作りたかった。それでも諦めた方がいいのかもしれないと、レイに話した。 「その人は、世界を変える研究になるって言ってくれたの」 あの返事が嬉しくて、何度も読み返した。自分でも諦めかけた研究を、レイは実現できると思ってくれたのだ。私が続きを作るのを楽しみにしてくれた。それなら、期待に応えたかった。 「だから、もう少し頑張ろうと思えた。うまくいかない日も、あの人にできたって言いたくて」